「って、ぐぇえーっ、ホントかいなーっ!!」
つゆくさの里に踏み込んだとたん。とりあえず見なかったことにしたいぐらいえげつない雨が降り出し、ナナミは魚を落としたハシビロコウのように固まってしまいました。
預かりものをギンジロウさんに届けなくちゃ行けないのにこの様。雨が止むまで待っていたらアルバイトの時間も過ぎてしまう。もうやむない、一気に行くしか、ないっ!
ばしゃっ、ばしゃっ、と泥がはねます。頬っぺたに気味の悪い茶色の滴がつきます。
もっと待てやーい、ウェスタウンはあんな晴れとったのに、なんでじゃーっ! 傘持っとらんのだぞ、ひとをおちょくるのも大概にせーいっ!
全身全霊、雨雲を呪い潰しながら茶屋を目指していると。
ばしゃっばしゃっばしゃっとまるで共鳴するように軽快な足音が聞こえてきます。はっとして横を見るともうそこでは、大好きな役者の卵の青年が顔をぐしゃぐしゃにして並走しているのでした。
「ヒナタ!」
「帰る途中か?」
「ううん、ギンジロウさんにお使い」
雨音に負けじと叫べば、ヒナタはこの雨の中でも太陽のようににっこり笑って、つきあうよ、急げっ、と目的地の建物を指差します。
威勢の良いヒナタの返事はナナミの背中をぐっと押してくれました。
しかし。それと同時にナナミは、ヒナタをぬかるんだ泥道につき倒してやりたい気持ちにもなりました。―彼の手には、りっぱな番傘がしっかりと握られていたのです!
傘持ってるならいれてよ、いじわるっ! それとも慌てすぎてて気づいてないとか? なんのための傘なのよーっ!
妙な悔しさからナナミは逃げるように速度をあげます。そうして二人は、ものすごい速さでお茶処のなかにとびこみました。
「あんたらアホか、こんな天気で傘もささずに! 」
はよはよ、あったかいもんでも飲んどき! バァーン! ―カウンターに叩きつけられる煎茶の湯飲み二つ。ギンジロウさんの豪快さに、濡れ鼠の二人はごめんなさぁい……と腰をおろすほかありませんでした。
「もーっ。降るなら降るって言ってよね! 乙女には心の準備ってものが必要なんだからぁっと!」
ごめんね、つきあわせちゃって、ヒナタの方を向きながらもナナミはむすっとして、お品書きを引き寄せます。
「せっかくだし、なにか頼もっか。どーしよーかなー、わさび餅とかどう?」
「いいんじゃね、わらびも……っば、わわっわさび餅ーっ? なんだそれ、罰ゲームか?」「よーくできました! 罰ゲームよ!」
「オレそんなわるっ……あ!」
ナナミの視線が自分の手に握られた番傘に向けられているのに気づき、ヒナタは一瞬ですべてを悟りました。女の子が雨に濡れてるっていうのに傘もさしてくれないなんて、気のきかない卑怯者っ、いじわるっ! 鋭いナナミの両目はそんな言葉を発しているように見えます。
「そんな悪いことしたんだ! てかなんも言ってなかった! でもわさびは待ってくれ、オレなりに考えた結果だったんだ、旦那さまが!」
なんてことした、と言わんばかり。役者らしくオーバーな手振りで彼はがっくりして、しょぼんと小さくなりました。
「……旦那さまがさ、相手を想うなら頭より目で想え、目より手で想え、手より足で想えって、そう言ったんだよ。それってさ、可哀想だって思うなら相手の顔を見ろ、顔色をうかがうんなら手を差しのべろ、手を差しのべるんならいっしょに歩め、って……」
雨に濡れた迷い犬のように首を垂れながら釈明するヒナタ。雨をしのげる屋根の下に入ったというのに先ほどの笑顔はどこに潰えたのか。ナナミはどきりとしました。
「いっしょに歩め……それってつまり、同じ立場に立ってやれってことかなって!」
確かに、哀れみや憐憫は上からかけてもらうもの。もちろん、心のない思いやりなんてありえないけれど、恵まれた立場から守ってもらうのはどこか恩着せがましさも残るはず。とりわけつゆくさの里の住民たちはそういった心の距離に敏感で、目に見えないお互いの距離や立場をとても大切にするひとびとだから、いっそう……。
「雨んなか走ってるお前が見えて、とっさにいれてやらなくちゃって思った。でもそれじゃ、オレが優位ってことになっちまう。そうじゃなくて、オレ、お前と同じ高さで、お前と苦しみを分かち合いてぇって思ってさ……」
うう、ヒナタ! あんたはどうしていつもこんなにいじわるなのよ? そんな風に言われちゃ、傘にいれてくれなかったいじわるなんていじわるのうちに入らないじゃない……! ―羞恥と喜びでナナミの両目に涙がこみあげます。ふっとヒナタから顔を背け、彼女は肩を震わします。
「それで、傘、ささなかったんだ。……でもそんなの嬉しくなんかないよな、ごめん! 潔く謝る! ……なぁ、だから機嫌なおしてくれよー! お前の大好きなきんつばおごってやるからさー!」
「じゃ、わさび餅、いっしょに食べよ!」
ぱっと泥まみれの笑顔を彼に向け、ぐいぐいと涙をぬぐうと、ナナミは自分の早とちりを詫びる代わりに罰ゲームを共にしようと提案。
「私だけ甘い思いするの、よくなくない?」
「……。っそ、そっか!」
ナナミの真意を察してヒナタはぽんと膝を叩きます。
「へい、ギンジロウさん! わさび餅、ふた……」
「なもんあるわけないやろ、アホがっー!」
ババァーンッ!
いよいよひとをおちょくるのも大概にせーい、と言わんばかりにギンジロウは二人の前にこんがり黄金色に焼けた美味しそうな焼き菓子を二つ。
「ひとの店であんまりいちゃいちゃするやないさかい。いいからだまって食っとき!」
ごめんなさぁい……! 妻子持ちのギンジロウの前に、恋する小鳩たちは首をすくめるほかありませんでした。
驟雨はいつの間にか、この時期のつゆくさの里にありがちなじとじと細く長く降る粉糠雨にかわっていました。ギンジロウに妙な気後れを感じ、きんつば焼き―一般的には大判焼きと呼ばれる粒あん入りのふわふわの和菓子を食べ終わるとすぐに、ヒナタとナナミはお店を後にしました。
今日はたまたま出荷箱の回収がヒナタの番で。彼は少し早くついてもかまわないし、とナナミを牧場まで送ってくれました。
ぬかるんだ道を柔らかな雨の抱擁に包まれながら進んでいくのはなるほど悪い気分ではありません。それが隣に愛する人がいるとなればより一層。おまけにその大切な人は、名前にお日さまの温もりを背負っているのです。
「ヒナタ。どうしてつゆくさの里ではこの時期にわざわざ七夕祭りをするの? お星さまを見上げるお祭りなら、ウェスタウンみたいにもっと晴れる確率が高くて、空気が澄んでいる時期にやればいいのに」
ナナミは急に思いついたように、素朴な質問をしました。
「うん、言われてみりゃ正反対だな、こっちは夏至、あっちは冬至。一年で一番夜の短い時期と、一年で一番夜の長い時期」
「そうよ。織姫と彦星だって少しでも長い時間いっしょにいたいはず。それとも仕事をサボった罰で会える時間も短く設定されたのかな」
「どこまで神さま、厳しいんだよ……」
眉尻を落としてひーっと困り顔をするヒナタ。これは彼の得意顔で、よく舞台の上でもこの顔でお客の心をわしづかみにするのです。しかし彼はすぐに、真剣な顔になりました。
「オレが思うに、両方とも生命が関わっているって思うぜ。冬の一番夜の長い日ってのは、次の日から日の出る時間が長くなってくってことだろ? 生命が目を覚まして、少しずつ育っていく大切な時期だ」
なるほど。星夜を見上げる二人の想いもそこから育っていくというわけか、意外と鋭いうえロマンスのセンスも抜群のヒナタ、さすがだ……。
「で、夏の一番夜の短い、つまり昼が長い日の夜ってのは、冬に目覚めたたっくさんの生命が元気いっぱい活動している時期だ。ホタルも飛ぶし。植物は青々としてる。そんななかで出会えたら生命の力を分けてもらえる気がするってもんだ。で、そのためにはやっぱ、雨が必要ってわけ」
「へぇ、ヒナタはよく知ってんだね。畑の作物もさ、天からの水やりがないと喜んでくれないんだ。溜め水や水道の水は、やっぱり天然の雨水とは違っておいしくないみたい」
「だろだろー? だからきっと、織姫と彦星も雨が降ろうがとんじゃかねぇって思ってんだよ。むしろ、ふたりが年に一度の逢瀬で流した喜びの涙が雨になるんじゃねーの?」
オレんちはもともと農家だし、この暑くなる時期にはむしろ雨が降ってくれるよう祈るぐらいだよ、そう言ってヒナタは胸をこぶしでトンと打ちます。
「それにさー雨で天の川が増水してもカササギが橋渡ししてくれんだぜ、ちょっとあいつらうるさいけど。でも、それはそれでにぎやかで楽しいって思わねー?!」
「ふふーっ、ホントにヒナタって前向きだよね!」
「なんだよ! お前、根暗で後ろ向きな男が好きなのか?」
「そんなことないよ! 牧場の娘は太陽の光を独り占めしたいんだから……! でもヒナタはやっぱり、太陽よりもスポットライト、独り占めしたいのかな?」
「おい」ヒナタの顔が急に険しくなります。「そんなことでオレが役者やってると思われちゃ心外だな」
ばちゃっ、ばちゃっと彼はわざと泥を跳ねます。
いつになく真剣な表情の彼。ナナミの言葉は図らずも、彼のもっとも繊細なところに触れてしまったよう。―でもそれだけ、役者にかける彼の魂が本物だということでもあります。
「そりゃさ、もちろん、花道は歩いてみてぇし、大喝采浴びてみてぇし。それは励みにはなる。でもやりがいにはしたくないね。そんなもののために演技に磨きをかける役者なんてオレは大っ嫌いだ」
そういうやつに限って、ろくな演技してねぇから! 彼の言葉に熱がこもります。
「さっきの旦那さまの言葉って、芝居にも当てはまると思うんだ。まずは台本があって解釈とか演出とか頭で考える部分がある。次に衣装とか舞台装置とか目に見える要素がある。さらに身振り手振りの演技がある。……だけど一番大事なのって、演じる役と二人三脚できるかってことじゃねぇの。台本全部通して、他の役のこともよーくよーく知り尽くして、それで自分の役の気持ちになってみるってのが、オレの役者としての生きがいであってやりがいさ。どれだけ声が通ったって、どれだけ身のこなしが上手くたって、その役になれてなくちゃ、スポットライトなんて浴びても嬉しくねぇよ!」
媚を売らず、営業もせず。むき出しの彼の言葉はどこまでもまっすぐで。恋人がこんなにも自身の本職に誇りと勇気を持っていると知り、知らず知らず目尻に滴が込み上げます。
彼に愛された役たちはこの世で一番の果報者に違いない。ナナミは謂れのない嫉妬心に駆られつつ、男役に妬くなんて彼に失礼よ、と首を振りました。―むしろ、恋人がいろいろな役を演じてくれるんだから、それだけ多くの若者に惚れることができるってこと!
「って、いつか談話とかで言ってやるんだ! いまのは『げねぷろ』ってやつ!」
照れ隠しのように自らの言葉を茶化したヒナタに、ナナミはもうっと笑い出しました。
「本番にも私を呼んでちょうだいよ!」
二人の足は雨のカーテンをくぐって、交差点の泉のほとりに出ていました。
雨によって区切られていた二つの世界をまだいた瞬間、ナナミは初めて恋人の心に触れたような気持ちになりました。
舞台がはねた後に呼び出しで緞帳をくぐるとき、ヒナタは一体どんな気持ちなんだろう。偽りの世界と現実の世界の境界線を越えるってどんな気持ちがするものかしら……。役に一途な彼のことだから、緞帳の奥と前とでぱっきりと別人物になれちゃったりするものなんだろうか。
「ヒナタ、今日はごめんなさいばっかりだね。傘のことで拗ねて、役者のことも、軽率なこと言っちゃって」
「おあいこだ、オレだってお前以外に今日話したみたいな話はしねぇよ! それでもお前が謝りてぇっていうんなら……、次の公演観に来い。オレの本気を見せつけてやる!」
小柄で高い声の彼は、賢者や城主の役をもらうことはまずないでしょう。しかし、若々しくてハリのある声の役者には、有能な後継ぎ息子や活きのいい色男の役が回ってくるのです。誰もが憧れる、ウェスタウンで言えば文句のない「王子さま」の役が!
それを、舞台の前からではなく、その横から応援できる身分に自分はなりたい。プロンプターなのか、ご意見番なのか、マネージャーか。いやもっともっと近いところから、わさびのように辛口の批評もしつつ、彼に寄り添うようにして、彼と足並みをそろえて役作りを手伝ってあげられる存在に、なりたい。彼は絶対、彼のこうありたいと目指す役者として、花道で満場の喝さいを浴びることになるはずなんだから!
「そしたら楽屋にトツして抱きしめちゃう!」
おーいおい、それ、子供らの前でハグされるの嫌がったお前にはすごい罰ゲームだけどいいのかよ、まわりに舞台関係者うじゃうじゃいるんだぞ、そう口を開きかけたヒナタは、スポットライトよりも独り占めしたい最高の労いをわざわざ自分の言葉でぽしゃらせるのもよくないと思い直し、心の中でにやっと笑いました。
「……決まった! さあ、早いとこ練習、練習だ! 役にもお前にも恥かかせないよう、がんばらなくちゃなー!」
子馬のようにはしゃぐ彼の足元で、初夏の日差しをあびて育った青草が、威勢よくその身をくねらせます。
ナナミが初めてヒナタの舞台を観に行くとき、彼は代役で主役の一人に大抜擢されることになるのですが……そんな大事件が起ころうとは、そのときの恋する小鳩たちには考える余裕もないのでした。
【完】
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生きておりますー!
久しぶりの牧物創作です!3つの里からフォードさんとか、ハルバさんとか書きたいものはいくつかあったのですが、夏の月のヒナタ祭りに便乗してヒナタくんのお話に落ち着きました。七夕に間に合わなかったのは内緒ですよー!
いかにも舞台人らしく陽気で快活でしかも取り巻きをいい気持にさせてくれるすごい力の持ち主ヒナタ、実はしょっぱなのかくれんぼのイベントで大分もってゆかれていました…。小さいひと相手と言えしっかり心配りができる彼、きっとすばらしい役者になるはず!
心配りと言えば、ヒナタがいつか主役をやるとして、カーテンコールの際に
女性役者 座長 ヒナタ 女性役者
の並びになりそうになった瞬間に、ささっと横の女性役者と立ち位置かわって彼女に座長と手をつながせてあげる粋な彼を拝んでみたいです。画力が…そしてアニメーション作れる技術が…あればのう!(仮定法の接続法2式)
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