冬の寒い朝。かじかむ指先をホットチョコで温めながら、イリスは何の気なしにテレビを眺めていました。小さな四角い箱の奥では、宿屋のお嬢さんが慣れた口調で番組進行を務めています。今朝の簡単なニュース解説から、最近のトレンド情報、そして彼女の畑であるところの天気予報。
今年の2月14日は樫の木タウンの上空、高気圧が張り出し、雲一つない快晴で、日中は暖かな一日となるでしょう、どこぞの晴れ男がお山の牧場の甘いいちごをこっそり食べにくるのかもしれません、と言いたいところですが山頂はそれでも冷え込みます、夕方には霧も立ち込めますので、のーんびりいちご日和、とはまだいかないようです―彼女の口からは淀むことなくお天気情報が、続いていつもの無根拠ながらもくすっと笑える一言二言が飛び出します。
初めて天気予報を任されたときはあの子はずっと原稿を読んでいて、言葉に詰まることはないにせよ、どこか無責任な、他人事のような解説だったわ、天気予報士になりたてのころのリーリエを知るイリスはふふっと口をゆがめます。
それが、いつのまにか自分の言葉で情報を伝えられるようになって、お天気を気にするすべてのひとに、分かりやすくてためになる天気予報を届けられるようになった。そのうえ朝から無邪気な冗談で見る人を和ませて、一日のスタートを楽しくさせてくれる。ひとを助けたい、そんな彼女自身の願いを彼女は立派に叶えている、年下だけど彼女にはうんとうんと学ぶところがあるわ……。
「私も、私の作品を待っているすべてのひとに、夢を見せ、また現実を見つめさせ、そして感慨を与えられるような作品を、もっともっと書かなくちゃ」
樫の木タウンいちのキャリアウーマンであるリーリエの姿に創作意欲の炎が燃え始め、イリスはホットチョコを机に置き、筆をとろうと腰を上げました。ところが、次の瞬間、イリスの頭はまったく違った情熱に燃え上がることになるのでした。
「……それではお待ちかね、コッヘン・ツ・ハウゼ、お家でクッキンの時間でーす! 今日は……バレンタインデーということで! 家でも簡単に作れるパフ入りチョコクランチを作ります! 教えて下さるのは―」
鈴を転がしたような愛らしいリーリエの声は、イリスに思いがけない衝撃を与えました。
バレンタインデー。ずっと昔には、このバレンタインデーに心ときめかせた自分がいたはず。容姿端麗で頭もよく、本が好きな文学少女だった自分の周りには、黙っていても男児がわらわらと集まってきていて。そのなかには確かに、自分が感興そそられるような好男子もいて、そうして本命のチョコや義理チョコを徹夜で用意した、そんな甘い思い出が確かにある。
パリアッツォとも メッツェティーノとも
カヴィッキオとも ブラッティーノとも
パスカリエルロとも そうでした!
ああ そして時には 二股なんてことも!
だけど 決して 気まぐれではなく
いつも そうしなきゃ いられないのです!
どこかで聞いたことのある途方もない輪舞が頭の中を巡り始め、はぁ……とイリスは溜息を吐きました。あの厚かましくも華やかな時代はどこにいってしまったのだろう。義理と本命で二股というなら、私はいったい何股かけていたのだろう。本命のチョコレートにだけこっそりブランデーを忍ばせるような時期もあったかしら。それでも新しい男は次から次へと現れて、私を殺して生まれ変わらせてきた、それなのに。
私をマドンナと、あるいは女王様と崇め奉った殿方たちは、いつのまにかこつぜんとどこかに消えてしまった。それとも、私のほうから消し去っていったのかもしれない。あの殿方のなかに、私が私の王子さまと呼べるようなひとはひとりもいなかったような気がするから。
サクラの国の絵本に出てくる猫のように私は何度も生き返り、そしてサクラの国の昔話にでてくる月の女帝のように私は求愛者も求婚者をつれなく追い払ってきた。いつか私にぴったりの白猫が、私にぴったりの王子さまが、この世でたったひとりと断言できる神さまが現れると信じて……。
「イブキ……。愛しい人……」
ペンを持つ代わりに胸に手を当て、イリスは十歳は若返った少女のように目を潤ませ、甘い声を出します。
「この世とあの世と間の世においても、私のたったひとりの美しい人……!」
とたん、甘美な音色が弦の悲鳴にかき消され、イリスは激しく頭を振ります。階下でミステルがコントラバスをかき鳴らしたのか、ぱたぱたと階段を下りかけ、はたと立ち止まります。弟は楽器なぞ弾いていない。あのひとを想う私の気持ちが私の心の琴線に鋭く触れて、それで悲鳴のように大きな「音」が鳴ったのだ、イリスは上階に駆け戻ります。
ああ、彼を想う気持ちがこんなにも激しく私を揺さぶるなんて! 彼は出会って間もないころに私に恋をしたと言った、あのときは軽くあしらってしまったけれど、もうあのときには私の心は、そう、幾多の殿方が束になって矢を放っても貫通することのなかった私の心は、あのときもうすでに、彼の伊吹に大きく膨らんでいて。
どうして彼を王子さまだなんて思ったのかしら。……見た目? ……容姿? ……声? あの夢を見るような大きな瞳に野良仕事にはもったいないほど端正な目鼻立ち? あの、鶏から牛までてきぱき放牧して、さっそうと愛馬を駆ってやってくるがっしりとした、それでいて無駄のない長身の体つき? あの、うっとりとさせる甘くて少し高めのバリトン声?
それとも、よその国からやってきて、臆せず私に恋をしたと言ったあの朴訥さにやられてしまったのかしら?
……そうかもしれない、いやそうでないかもしれない。理由なんて探すだけ野暮だってことは誰よりも自分が一番わかっているはず、王子さまは……少なくとも私の世界で生きる王子さまは、一目会っただけで彼とわかる、そんな男性に違いないのだから!
「イブキ、私はあなたが愛しい。愛しくて、愛しくて、ならない!」
しかし……。もういまの自分は、バレンタインに愛人に贈り物を、ましてやチョコレートのお菓子なんざをあげるような年齢ではない。そんなメルヒェンチックな乙女時代はもうずいぶんと、前に背後に取り残してきてしまった。ようやく……ようやく理想の情夫が現れたというのに、この日を祝うだけの心のゆとりが、もはや自分のもとには残っていないなんて!
小説の中では幾度も達成してきた神秘―ずいぶんな年の女性が愛する男児に贈り物をするお話はなかなかに受けが良いので何度か書いてきた、そうして彼女は少女に戻るのだ、愛する男の腕の中で―このような神秘も、いざ自分がその女性の身となるとなんと達成することが難しいものか……!
事実は小説より……と言っても、自分はその小説にすら及んでいない。必死で年上風をふかせてきたつもりなのに、イブキの前では自分は本当のおねんねちゃんのようで。
「……いいえ、それなら、それでいいのよ、イリス」ホットチョコが入ったコップを再びしっかりと握りしめイリスは弟に聞こえないよう小さく呟きます。「乙女に戻った私を女性にできる、そんな力と権利があるのはイブキ、愛しいあなたしか、いない」
甘いチョコレートをぐいと喉に流し込むイリスはもうすっかり気もそぞろで。彼女の耳には、箱の向こうでリーリエが「おいしくできたチョコレート、せっかくなので、奮発して花束を添えてみてはいかがでしょうか?」とお料理コーナーを締めくくる言葉も全く入ってこないのでした。
「おや姉さん、めずらしい、外出ですか?」
オットマーさんのお店にチョコレートを買いに行くためすっかりめかしこんだイリスに、可愛い弟は真に不思議がる様子で尋ねました。先日亡くなったエッダさんがずいぶんと前に編んでくれたフェイクファーのアームウォーマーに手を入れ、丈の長い濃紺のスウェードのコートを着て、そうして流れるように輝く金髪にやはり濃紺の上品なウールフェルトの帽子をかぶせた姉の姿は、まさにこれから環状路を逍遥に出かけようとするヴィーンのご令嬢そのもので。弟のミステルもどきりとしてしまうほどでした。
「ええ、突然。今日に限って欲しいものができてしまったの」
「……ああ。そういうことで」
ミステルはするどくすべてを悟り、ふわりと微笑みます。
「一晩ぐらいお帰りにならなくても、ボクはかまいませんから。どうぞ楽しんできてください」
「まぁ……そんなあけすけな送り文句はいただけないわね!」
「それではボクが思慮に富んだ言い回しができるだけ、姉さんが外出してくれたらと願います。なにせ今日の姉さんは本当に美しいのですから。……いままで見てきた姉さんのなかでも、一番美しく見えるから」
「ミステルったら、よしてちょうだい!」
「本当ですよ、そしてボクは、美しい姉さんがとても好きです。姉さんが彼を想うのと同じぐらいに大好きです」
聡い弟のせいで出発前から耳たぶまで赤くなり、イリスはこれ以上弟を相手にしてはならないと大急ぎで外にとびだしました。せっかくめかしこんだのに、こんな顔をひとに見られたらどう思われるだろう!
それでも心のどこかで嬉しくてたまらないのは、他者にほとんど興味をもったことのない弟が、愛するイブキのことを親しみと温もりをこめて「彼」と愛らしく呼んでくれたからだろう。
その「彼」を、弟が「義兄さん」と呼んでくれる日が来るよう、今日私は少女に戻るのよ! 淡く積もった雪の上を、転ばないよう慎重に歩を進めながらもイリスはせかるる思いに胸をときめかせます。
クラウスの家を横切り、町の中心へ続く階段をのぼれば、目指すオットマーさんのお店はすぐそこ。この時期は臨時でチョコレートが店頭に並ぶから、いまからでもまだ買えるはず。それを特別にラッピングしてもらって、山の頂上、イブキのいる牧場を目指そう。イリスはあふれんばかりの期待と喜びに堰を切って、お店にとびこみました。
そこで目にしたのは……。大きな大きなユリの花束でした。オットマーさんがせっせと太い茎を束ね、純白のリボンできゅっきゅと結わえています。そうして老父はメッセージカードを取り出し、結わえたリボンにちょこんと添えると「はぁ、今年もいいできじゃぁ!」と帽子がとびあがるほどに手を叩いて喜びの声を張りあげました。
「まあ、どうなすったの? その花束」
「おぅや、イリスさんじゃないか。入ってきたならそう言ってくれればいいのに」
「おじいちゃんが一生懸命花束を作っていたんですもの、声なんてかけれなかったの」
あいや、そりゃ悪かった、オットマーさんはすっとんきょうなテノール声を響かせながら頭をかき、スズメのようにぴょんぴょん飛び跳ねます。
「この花束はな、モーリスにやるもんなんじゃよ」
メッセージカードにはイリスの知らない女性の名前、そして「愛するあなたと娘たちへ」の言葉。まごうことない、バレンタインの贈りものです。しかしモーリスの愛する妻はこの町にはいません、否、その女性は亡くなったと聞きます。それなのに、「愛するあなた」とは、まさか……。
「なぁに、あのひょうきんだが子煩悩で誠実な男がよそに女をつくるわけないじゃろ。これはあいつの奥さんがわしに頼んで作ったもんなんじゃよ」
「しっ、死人がですか?!」
驚きのあまりにイリスは恐ろしい言葉を吐いてしまい、すみません、と頬を赤らめうつむきました。
「……さよう、死人が、じゃ。いや、もちろん亡くなる前の話じゃ。彼女は死期を悟ったのじゃろうな、ある日急にやってきて山ほどのメッセージカードとお金をわしににぎらしての、こう言うたんじゃ、『私が死んでも彼を想う気持ちは変わりません。毎年バレンタインデーには、私の名前で彼に、彼が大切にしているユリの花を、彼の心がとろけるぐらいに、いっぱいいっぱい贈ってください。』結局それが遺言になっちもうた。じきに神さまは彼女をお召しになった。そうしてこの日にゃぁ、わしは彼女の代わりに、ユリの花束を作ってそれとなぁくモーリスにわたしておるんじゃ!」
「モーリス小父さんの……ご夫人が……」
それでユリ、心がとろける……リーリエとメルティなのか、そうイリスは思い嗚咽しました。こんなにも素敵な計らいができる女性が、こんなにも自分のすぐ近くにいたなんて。自分の小説の中にも登場させてみたい。
ああ、でもそれより私も……私も彼女のように、死ぬまで、そして死してなお、あのひとに貞節を、愛を貫きたい。あのひとは、この世とあの世と間の世においても、私にとってたったひとりの美しい人なのだから……!
「オットマーさん、私にも花束作って下さって?」
「おぅ! そう言うと思っとった! まかせとけぇ!」
できたばかりの大きな花束をもってイリスは牧場を目指します。奮発してめかしこんだ冬着は花を持つのにも、山を登るのにもまるで適してはいませんでしたが、彼を想う気持ちがすべての不具合を帳消しにしました。彼に少しでも早く花束を渡したいと願う気持ちが自然、彼女をぐいぐいと山頂目指して引っ張ってゆきます。もたもたするうちに食いしん坊の晴れ男に牧場のいちごをつまみ食いされては困るというもの……!
リーリエの予報通り、山頂に近づくにつれ辺りは靄がたちこめだんだんと視界がきかなくなっていきます。その靄は次第にきめ細やかな霧となり、底冷えのする冷気となってイリスの体にまとわりついてきました。しっとりとぬれるスウェードのコート。エッダさんの忘れ形見も毛の一本一本が湿って束のようになっています。
こんな身を刺すような環境の中であのひとは仕事をしているのか。誰にも声をかけられず、動物と植物の相手をしているというのか。もちろんそれは彼が選んだこと、そして家畜や野菜の話をする彼は本当に楽しくて、生命の伊吹に満ち満ちていて、それを咎める気には一切ならないけれど。せめてチョコレートはホットチョコにして持ってくればよかった。寒いのは慣れていると彼は言うけれど、それとはお構いなしに彼の労を温かくて甘い飲み物でねぎらってあげたい。わき目もふらずに山を登るイリスの足元にはもうかなり深く雪が積もっていました。
晴れ男も吹き飛ばすことができなかった鉛色の雲から、ちろちろとこまかな冷たい破片が踊りながら降りてくるのが分かりました。
そうして雪の中で温かそうな羊たちに声をかけている情夫の姿が目に映ると。イリスの鼓動は体を突き破って天地を引き裂かんばかりに大きくなりました。大好きなのに躊躇ってしまう気まずさ。大好きなゆえに躊躇ってしまう気恥ずかしさ。大好きだからこそ躊躇わずにいられない気丈さ。言葉では綴ることのできない大蛇のような感情が胸をぐいぐいと締め上げます。
はぁはぁと普段の彼女にはないぐらいに大きく息を吐いて呼吸を整えると、イリスはすっくと腰を上げ、すっかり落ち着き払って心臓の高鳴りにも一切表情を乱さず、つんとすましたヴィーンのご令嬢の流儀で愛するイブキのもとに歩み寄りました。
「イブキさん。今日は……特別な日でしょう。私の贈り物を、受けて下さる?」
目の前に現れた女神のように美しい彼女の姿にイブキは喜悦しました。自分よりずいぶん年上なのに、乙女のような可憐さと、少女のような無邪気さに、大人の気品と色気、だれにも負けることのない知性と理性を兼ね備えた、彼の唯一の愛らしい女性。虹の女神の名にふさわしい、七色の魅力に満ちた小説家、イリス。
その細く白い手から、たわわに結わえられた深紫色の花束を受け取ると、羊飼いの王子さまは彼女の流儀に倣うように、厳かに腰を曲げました。
「これは俺の一番好きな花、俺にとってこの世で一番大切な花だ」
そっとアヤメの花束を片方の脇に抱えると、イブキはイリスに両腕を伸ばします。
―牧場についたら花束を渡して、お台所を借りるわよ、そういって彼にチョコレートを入れてあげようと思っていたのに……。眩しいほど美しく、焦げそうなほど熱いイブキの笑顔と抱擁に、イリスの体は呆気なく崩れます。愛するイリスを抱きとめたイブキは、自分たちと家畜以外は誰もいない山頂で、そして宵闇ならぬ深い霧に紛れ、辛酸と苦渋を嘗め続けきた彼の女神に命の接吻をします。
やはり彼は魔術師か、あるいは私が会いたい会いたいと願ってきた最後の死に神に違いない、乙女の私を殺して、ひとりの成熟した女性として生まれ変わらせる死と生の神さま。そうして私を腕に抱き、彼もまた生まれ変わって、ひとりの男性としてそこに立っている。恐怖からほど遠く、喜びと興奮ですっかり顔を赤らめて…
家畜ののんびりとした鳴き声が響き渡る牧場の片隅で、イブキの腕に抱かれたイリスは、牧場の甘く酸っぱいいちごの味をかみしめ、はらはらと涙を流しながらも、愛する王子さまの逞しい体をぐっと抱き返すのでした。
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つな天5周年記念…に便乗して
バレンタインデー当日に思いついてまぁ間に合うわけがなかった
イブイリ創作です。
このさい賞味期限はなかったことにしてください。
途中でモーリスへの愛が爆発していますが
気にしないでください、これがデフォルトなのです。
ドイツ語であやめ(アイリス)はシュヴェルトリーリエあるいは
「イリス」というので、イリスとリーリエは
どこか似ているところがあるのではないかと思います。
まあしかしイリスさんはどう考えても
尻軽のはすっぱ娘ではなく、
つんとすましてどんな殿方の求愛にも動じない
芯の強いオーストリーの娘…のイメージが強いです。
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